神山健治プロフィール
1966年3月20日生まれ。
高校在学中から自主アニメーションの制作を始める。
埼玉県秩父農工高等学校食品科学課卒業後も自主アニメーションの制作を続け、1985年スタジオ風雅に入社。
劇場作品「AKIRA」「魔女の宅急便」等に背景として参加。1996年、プロダクションI.Gにて押井守が主催した押井塾に参加。同時期に劇場作品「人狼」演出「BLOOD」脚本、「ミニパト」監督と着実に実績を積み上げ、TV「攻殻機動 STAND ALONE COMPLEX」,「攻殻機動隊S.A.C. 2nd GIG」を監督。

   
 
No.01「プロダクションとクリエーターは対だと思う」

  今から4年前の'00年、神山さんが有志数名とオリジナル企画「エグザスケルトン」を立ち上げていると聞いたとき、その行動がプロダクションI.G内で起爆剤になるんじゃないかと思った。I.Gグループが抱えるクリエーターは当時100人を超えていた。彼らに対して神山さんはクリエーターの姿勢はこうあるべきだと、「挑発」に出たんじゃないか。『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』DVDの巻末インタビューを見ると、どこまでもクールなように見えるが、スイッチが入ると巻き舌になる熱血漢だから。今回はそのあたりを聞いてみた。

僕らは宿場町の雇われ用心棒じゃないんだからさ
  I.Gには世界に通用するクリエーターが腕を振るうステージが用意されている。スケジュール、バジェットに恵まれた企画のオファーも多い。制作態勢も整っている。腕に覚えのある剣客が大勢集まってくる。神山さんは当時I.Gに限らず、プロダクションに席を置く力のあるクリエーター全般を覆っていた制作姿勢に疑問を感じていたようだ。「俺に何を食わしてくれるんだって云うね、姿勢が客人ぽくっていやだった。そういう人達が優遇されていたいい時代もある。でも、僕らは宿場町の雇われ用心棒じゃないんだからさ。」さらに、クリエーターが目指していた作品の方向性にも懐疑的だった。「商売とは直結しそうになく、クリエーター個人のプロモーションにはなるかもしれないけれど、制作会社の汗を流すスタッフにとってはあまり得るものがなさそうに思える物が多いように感じられた。この作品をやれれば制作会社が疲弊しようが知ったことじゃないということで作品を作ったけれど、得をした人が少ないというようなことが多かったんじゃないかな。僕はそういうことじゃないと思った。」さらに、神山さんが強く危機感を抱いていたのは、当時のI.Gの経営状況を知っていたからでもある。

こんな時こそ僕らが立ち上がろうぜ
  当時I.Gはゲーム制作の「金銭面のブラックボックス」が経営を圧迫し、石川社長はグループの統合再編に取り組んでいる真っ最中だった。押井守監督もI.Gを「留守にしていた」。「(I.Gの)状況もどこ吹く風で、安心して腰を下ろしている。口を開けて待っているクリエーターはいっぱいいた。しかも、力があってね。」
  神山さんがI.Gに席を置いて間もない'96年にI.G内部で始められた企画セミナー「押井塾」。「人狼」の演出業務と平行して、毎週1本オリジナルの企画書を提出しプレゼンテーションするというハードなものだったが、「そういう形でチャンスをくれた石川社長や、師匠である押井監督に対して恩返し、というようなことはできないかもしれないけれど、僕らから何か提示しようと。それはやる気のある人間だけでやればいい。何かこういう時こそ、こんな時こそ僕らから立ち上がろうぜと。」
  モチベーションがあることはクリエーターにとって当然のこと。それが無いヤツは作る必要が無いと言い切る。「それを作る上でどうアクションを起こすか」であると。有志によるオリジナル企画の立ち上げは、自分にやりたいことがある、という「大前提」のモチベーションと、「プロダクションとクリエーターは対だと思う。どちらか片方が得をすればいいというものではない。」という神山さんの考えから起こしたアクションだった。
  「(他のクリエーターを)挑発してやろうという意識があった訳ではないけれど、たぶんどっかで、じゃあ、そういう人達は置いてっちゃえっていうかね、安心して腰を下ろしている間に僕らは先に行けばいいじゃないか、本当にやる気があるやつは先に進もうと、そういう気持ちでした」


N o.2「理想の現場を先に作ろうという意識は無いんですよ」に続く
 
       
       
           
           
Copyright (C) 2004 PA works Corporation. All Rights Reserved